図書
『令和版剣道百家箴』
「師在りて」
剣道範士 末平 佑二(石川県)
能登半島の入口に位置する石川県羽咋市。市内の北側にある地域では、郵便局長さんが中心となり熱心に剣道指導が行われ、少年剣士が少なからず育ちました。大きな企業もない地域、今振り返ると剣道を通して「人材をもって資源と為す」といった空気が満ちていたように思われます。
そのような中、私自身は中学校から剣道を始め、地元の羽咋高校でも日々稽古に励むことができました。剣道の伝統校ながらも、部員の自主性が尊重される雰囲気も好きでした。体調不良で欠席した日の放課後に、剣道場で面を着けたこともありました。あとで担任の耳にも入ったのですが、初犯ということで黙認して頂きました。よき時代であったのかもしれません。
時を同じくして、高校の先輩である田畑 武正先生が東京教育大学(現筑波大学)を卒業して近隣の羽咋工業高校に赴任されました。合同稽古などでよく稽古をつけて頂きましたが、私が3年生になった時、大学で剣道を続け、中野 八十二先生のもとで手ほどきを受けることを勧められました。
しかし、8歳の時に大黒柱の父が急逝したこともあり、進学するなら県内・自宅通学・奨学金、休みの時はすべてアルバイトという母親との約束がありました。県外の大学は考えられませんでした。
我が家の状況を理解された田畑先生は、学校を越えて私の高校の担任と直接定期的に懇談され、特別奨学生の推薦をはじめ、苦学生優先の大学寮の紹介、成績の状況把握や激励など、父親代わりのお世話を頂きました。田畑先生との出会いで叶った進路でした。深甚なる感謝しかありません。
東京教育大学で、中野 八十二先生のもとで稽古ができることになり、部員仲間にはインターハイ優勝・入賞のメンバーもいて、そこからも多くのことを学びました。しかし、最初の1年間は荒稽古で心が折れそうになる日もあり、受身の1年でした。
当時、中野先生も師範をされていた皇宮警察の道場・済寧館に定期的に部員揃って参加の機会がありました。2年生になって、個人参加の許可を頂き、休み明けの大学の稽古が始まる数日前に上京、一人で済寧館の稽古に参加しました。以来、大学の稽古にも前向きに臨める転機となりました。
竹刀を持って中野先生の前に立つと、大きな岩の前に立ち尽くすが如くで、毎回はねかえされた記憶しかないのですが、稽古の終わりに部員全員によく講話を頂きました。「いい技術はいい組織から生まれる」。1964年の東京オリンピック前に日本サッカーがドイツから招聘したクラマーコーチの言葉を引用して我々に諭され、強く心に残りました。「剣道で大学日本一を目指すなら、日本一の部でありなさい。風通しがよくてそれぞれの居場所があって、それぞれが切磋琢磨していく。そういう組織でなければならない」と。教職に就いても、この言葉が座右の銘となりました。
また、大学の試合稽古では、「末平は手元が崩れないところがいい…」と部員全員の前でそのように言われると、田舎から出てきた私には少なからず自信となりました。大会で少しいい試合ができたときも、「思っていた通りだ…」と。それがまた自信につながりました。
大学を卒業して、金沢桜丘高校で教鞭を執ることになり、男子校が前身で質実剛健の校風などを書き添えて中野先生に挨拶状を出しました。すぐに先生から「与えられたところで精一杯頑張り、周りの人から認めてもらうように」との便りが届きました。その間、わずか3日。極めてご多忙な日々の中で、私ごときにしたためて頂いた心遣いに思わず涙が出ました。
教職の期間を無事勤め、退職後は小・中学生の指導と一般の方との稽古の機会が増えました。また、全剣連では社会体育指導員委員会に委員長として8年間関わらせて頂く中で、初級資格者は1万人を超え、特に女性受講者の方も増えました。聞くと、「普段から小学生の指導に当たっているので、指導力を更に高めたい」という方も多く、幼少年に細やかな対応ができる女性指導者が増えることに喜ばしさを感じました。
新型コロナ蔓延の折、小学生時代の母親との畑仕事を思い出し、野菜作りを始めました。種を蒔く適期、発芽気温や土壌の適否など、野菜にはすべて違いがあり、個性があります。一人一人の個性を把握した剣道指導がこれまで十分にできていたか、手抜きはなかったか、野菜作りを通して自問する日々です。(受付日:令和7年5月31日)
*『令和版剣道百家箴』は、2025年1月より、全剣連ホームページに掲載しております。詳しくは「はじめに」をご覧ください。



