図書
『令和版剣道百家箴』
「少子高齢社会にあって思うこと」
剣道範士 作道 正夫(大阪府)
近年の剣道界の大きな動向の特徴は、「少子高齢社会」をむかえての少年剣道人口の激減と、それとは逆に中高年齢層の増幅現象にあると言える。
「病気」や「障害」との闘いや共生を志向する剣道愛好家や、最近「リバ剣」と呼ばれるブランクからの復帰組、加えて中・高年齢からの開始組も多いと聞く。剣道という文化の襞に秘められた広大無辺なる価値の多様性に今更ながら驚かされる。
「技術(わざとこころ)の洗練・深化性」という「名人・達人の文化」としての縦軸的価値に引き寄せられながら、「多様性」という「大衆文化」としての価値が横軸的な広がり世界として織り込まれて存在している。この縦・横のバランスをどう活かし維持していくかが組織運営にとって極めて重要である。
中・高年齢で剣道を始められた人たちも目的はそれぞれであろうとは思うが、一つに昇段への過熱ぶりはよくよく考えなければならない。段位は各個人にとって努力目標にはなりえても目的そのものとなってしまえば主客転倒してしまう。
中高年齢から始められた人たちは、どうしても動作がどこかぎこちなくて、上肢主導型の剣道からの脱皮が難しいのが一般的である。いわゆる「一足一刀」のリズムが十分に体得できないまま、先送り的に相対の世界へと押し出されていってしまうのである。剣道は竹刀による<打つ、突く、かわす>運動であることから、「一足一刀」のリズムの習得(運動・技術系)は、なにをさて置いても身に付けなければ先に進めないものなのに、である。
これは単に剣道という運動の技術的基礎というに留まらず、このリズムに乗ることが出来ると体が喜び、うれしいのである。この喜びとうれしさを体解することが、これまで永年にわたって人生を生きて、自らを形作ってきているしがらみを解くことにつながってくるのである。体が気持ちよくないままに運動的瞑想法としての剣道という運動を強いることの罪の大きさを痛感せずにはいられない。何はさておき、まずはこの「一足一刀」の拍子の習得が最優先されなければならない。
ドイツの哲学者オイゲン・へリゲル氏の著書『弓と禅』はあまりにも有名であるが、へリゲル氏は2メートルほどの距離に置いた巻藁を的代わりに射ること4年。この間、阿波 研造範士から徹底して「呼吸法」と「弓を腕の力で引いてはいけない。心で引くこと。つまり筋肉をすっかりゆるめ、一切の力を抜いて引くことを学ばなければならないこと」の指導を受け、西欧的合理主義との狭間に揺れ動く葛藤のなかでの懸命な習得が綴られている。
まさに、表面的には単純に見える運動を通して、自らの身心を解放し、又あらたに集約していく過程が生々しい。剣道にあってこれに匹敵するものが<素振り・打ち返し・打ち込み>における「一足一刀」のリズムといえるであろう。ここを「体が喜び、体がうれしい」ことの習得期間として大切に位置付けていくことが重要である。ここでのじっくりとした時間の流れのなかで飽きさせない指導内容と指導力が問われる。実は文化としての襞の深さへの気づきや誘いの意義もここにあると言えよう。これはやがては「呼吸」と「動き」の一体化(端正、調和系)へと発展することとなる。そして高齢者にとっての養生運動ともなり、しかも美しく、無理のない、メリハリのある「一足一刀」の動きへと連動していく。
剣道の文化としての特殊的本質は、一つに双手剣の理としての<対人的・運動的技術性>というヤルかヤラレルかのギリギリの場面性を前提とし、二つには「老若男女の共習、共導性」の強い三世代性の文化であるということ。三つには、東洋的身心論を基底に敷く文化性にあると結論する。「少子高齢社会」は必ずしも老朽化した活力のない行き詰った社会ではなく、これからは「成熟化した社会」としての観点が必要であろう。剣道はその本質を活かし、誰もが尊ばれ、楽しめ、探究心を満たせる人生のツールとならなければならない。(受付日:令和7年5月30日)
*『令和版剣道百家箴』は、2025年1月より、全剣連ホームページに掲載しております。詳しくは「はじめに」をご覧ください。



