図 書
人間教育としての剣の道を辿る
第5回 名を惜しみ、恥を知る その2
国際武道大学 教授
田中 守
多くのスポーツに当てはまることだが、特に格闘性を帯びた競技スポーツにおいては、一般に高度なプレーは反則ぎりぎりのせめぎあいの中で生まれるものだとされる。その例として、サッカーのゴール前やラグビーのモールやラックの中でのプレーなど様々な場面を思い浮かべることができるだろう。
この様な反則ぎりぎりのプレーは、ルール上の限定に対して、許される範囲での最も有効な技術の開発や戦術の検討という競技者のあくなき挑戦の結果である。
だが同時にそれは、明示的ルールを極限まで拡大解釈していこうとするエネルギーでもあり、一歩間違えば「反則も技術・戦術の一つ」との理解の上で「ルールの裏をかく」や「審判の目を欺く」といったルール破りの戦術までをも生み出しかねないものである。
テレビのスポーツ中継において、時に意図的としか思えない反則行為が画面に映し出されることがある。そこには、勝利への執念とともに「審判が反則としなければ反則ではない」「見つからなければそれで良い」という強かさも読み取れる。勝利や記録のために、フェアプレーの精神やスポーツマンシップといった黙示的ルールまでもが破られてしまっては、スポーツの本当の素晴しさや楽しさは成立しなくなる。
近年の世界のスポーツ界全体に勝利や記録のみを重要な関心事とする傾向が強く表れているのは憂慮すべきことであり、ドーピング問題などもその延長線上にある。
では、剣道と他のスポーツの違いはどこにあるのだろうか。結論からいえば、スポーツの技術・戦術は明示的ルールの反則境界線(時には自分勝手に拡大解釈した境界線)の方に向かうベクトル上で高度化していく。それに対して、剣道では正反対の方向性が求められるのである。
つまり、単に反則を犯さないという受動的な姿勢ではなく、明示的ルールよりもはるかに厳しい自己規制(名を惜しみ、恥を知るという黙示的境界線)を競技者自らが設けるということであり、そこに「道としての勝負」が成立するのである。剣道の試合が、「人間形成」としての意味を持つか、単なる「自己顕示」の場になってしまうかは、この積極的な自己規制が機能するか否かに懸かってくるのであろう。
「相抜け」で知られる針ヶ谷夕雲は、
多クハ只畜生心ニテ、己レニ劣レルニ勝チ、マサレルニ負ケ、同ジヤウナルニハ相打ヨリ外ハナクテ、一切埒ノアカヌ所ノアルゾト云事ヲ―
『夕雲流剣術書』
と勝負について論及しているが、現代剣道は決して「畜生剣法」ではなく、「人の道」でなければならないはずである。先達が「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と説いたのも、単に勝負の綾を表現したものではなく、結果よりもそこに至る過程を大切にする「道」としての修行の本質を捉えたものであろう。
今、武道全般のスポーツ化が進んでいる。競技偏重・勝利至上の傾向が強く表れていることは否めない。以前にも触れたことだが、オリンピック種目となった柔道を評して、「もはや武道ではなく、JUDOというスポーツだ」と揶揄されることが少なくない。積極的に「一本」を競うことを放棄したポイント柔道、技の「かけ逃げ」や相手反則の誘導などの場面を見ると寂しい限りの思いがする。その姿は先に指摘した反則ぎりぎりの戦術を高等テクニックと捉えたものとしか思えない。
だが、「剣道は違う、柔道への批判は剣道には当てはまらない」といい切れるだろうか。
「道としての勝負」のあり方を考える時、幕末の剣豪島田虎之助が遺した
剣は心なり
心正しからざれば
剣また正しからず
の訓えの意味深さをあらためて痛感する。
我々は、現代剣道をスポーツという名の「術」の世界に引き戻してはならない。そのためには、競技をより楽しむために、西欧的な価値観で整備された明示的ルールによってのみ試合を成立させるのではなく、剣道の歴史や思想の上に立った黙示的ルールの重視を再検討することが必要なのではないだろうか。
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。