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人間教育としての剣の道を辿る
第3回 形稽古と竹刀打稽古 その2
国際武道大学 教授
田中 守
剣道(剣術)の形は、すべてにおいて卓越した人物(流祖)が、実戦の中で体験自得した技術・理論・精神の神髄を後世に伝達する手段として確立された様式だといえる。『猫之妙術』に
古人の所作を教るは、其道筋をしらしめんがため也。故に其所作易簡にして其中に至理を含めり。
と記されるように、運動技術を定型化することによって、合理的に、無駄なく、確実な伝授が可能となるのである。
しかし、決して形の習得そのものが修行の最終目的ではない。それを如何に応用し、実戦の場で活かすかが問題なのである。
後世所作を専として、兎すれば角すると、色々の事をこしらへ、巧を極め、古人を不足とし、才覚を用ひ、はては所作くらべといふものになり、巧尽ていかんともすることなし。(同前)
と指摘されるあたりは、修行本来の意味を見失った結果であり、形稽古が形骸化(いわゆる華法剣法)する様子をいい表している。
そこに、竹刀打稽古が登場したのである。当初竹刀打稽古は、形の補完的役割という位置づけがなされた。しかし、この関係は間もなく崩れ去り、やがて竹刀打稽古が主となり、撃剣そして現代剣道へと推移してきた。
では、現代剣道における形とは如何なる存在なのであろうか。主客が逆転し、形が竹刀打稽古を補完する役割を持つことになったのだ、と単純にはいい切れない様に思う。
本来、形は流派継承の中核をなすものである。流派という枠組みの中で、流祖以来の形を学ぶということは、単にその流派に入門し、その形を習得するというに止まらず、時間・空間を越えて流祖の直接の弟子として修行することでもある。よってその形は、学ぶ者と流祖を直接結ぶ一本の絆であるともいえよう。それ故、古流の形は「文化」としての価値を有するのである。
それに対して、現代剣道は流派の枠には関わらないものとして成立する。「日本剣道形」もまた然りである。その制定の経緯について、ここでは特に触れないが、大日本帝国剣道形の誕生から間もなく百年が経とうとしている。これを受け継ぐこと自体、立派な文化であるともいえるが、やはり古流のそれとは意味合いが違う。
また、日本剣道形が身法・刀法・心法を学ぶ上で極めて重要な存在であることは間違いない。しかし、それについても、絶対的指針として位置づけられた古流の形とは比べられるものでもない。
では、現代剣道において、形は無用の長物なのだろうか。昇段審査の一課題としてのみ取り組まれるべきものなのだろうか。
いや、むしろ競技偏重・勝利至上の傾向が年々強くなる今だからこそ、形を大事にしなければならないのだと思う。だがそれは、決して日本剣道形を一生懸命稽古しようということだけではない。重要なのは、形から何を学び取るかということであり、その学びの過程を通じて、修行者として、そして人間としての型を形成することである。
先達は、その修行の過程において、自己を窮屈な鋳型の中に投入し、没我・没個性の様々な規制の中で師の形を学ぶ(真似ぶ)とともに自己の型を確立させたのである。『兵法家伝書』に
よく習をつくせば、ならひの数々胸になく成りて、何心もなき所物を格すの心也。
様々の習をつくして、習稽古の修行、功つもりぬれば、手足身に所作はありて心になくなり、習をはなれて習にたがはず、何事もするわざ自由也。
と説かれるように、究極の制約と自己否定の中から無限の自由自在を生み出したのである。現代剣道を学ぶ我々も、「初めに試合ありき」ではなく、形を通じて先達の求めた「道」を辿る姿勢を持たねばならないのだと思う。
現代は、まさに「形無し」の時代といえよう。人間が形を失い、混乱が広がる現代社会にあって、剣道が果たすべき役割を考える時、形が身法・刀法の原理や作法の規範の習得というだけの存在であってはならないと思う。今、本当に求められるのは、人間行動の規範となるいわば文化としての剣道の形を再構築することなのではないだろうか。
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。