図 書
現代剣道百家箴
全日本剣道連盟20周年に際して
本間 七郎(剣道範士八段)
まず最初に全日本剣道連盟20周年記念をお祝福申し上げます。
次に連盟の御主旨に随い執筆させていただきます。
私の剣道修業期間を三段階に分け、第一期、第二期、第三期といたします。第一期は、竹刀を握ってから、世の中に一人立つまでの間、第二期は、社会に出て、第一期で修得した心技を応用し苦闘した時代、第三期は、第一期と第二期の仕上げの時代と言うことにいたし、更に単、複、単の三論理で表現することにいたしました。
第一期は、所謂単の時代です。私はある城下町に生まれたのですが、ここでは小学校5年生になると、必ず剣道の稽古をさせられたのです。郷里は、私学校時代からの仕来たりで皆剣道を学んだため、立派な先生がおられ指導をして下されたのです。その御指導の最中に先生から、いつも考えないで考えないでと言われたものです。そんな言葉は何の事だかその意味は分りませんでした。やがて中学に入り、専門学校に入り修業するにつれ、考えないでの意義がおぼろげながら分りかけて来たようです。私の修業時代は、明治の後期、大正時代で試合なんかも1年に1回位寒稽古の納会の時に行う位でその他は地稽古一辺倒でした。専門学校に入っても地稽古が本体で試合は先輩を送り出す送別試合位のものでした。
第二期は複で「考えないで」についての私の闘争開明の時代とも言えましょう。世に立って生徒を指導する立場を重ねるにつれ、今まで疑問だった考えないでの意味が暗雲を打ち破って燃え出ずる太陽の如く燦然と輝くのを覚えました。兎角第一期の修業時代は、心の乱れ易い時代なのです。打ってやろう、勝ってやろう等々と心の統一が出来ない時代なのです。その狐疑逡巡する所を先生が考えないでとその虚を突いて下さるのです。考えるなとは、絶対に考えるなと言う事ではなくして、考えながらも、それが少しも邪魔にもならない稽古、試合場の心境であると思うのです。これを換言すれば、無心而入自然之妙の無心も心が無いと言う事ではなく、考えながらの無心、無心のままの考えると言う事です。又分別と無分別も同じ事で、分別をするなという事ではなくして、分別のまま無分別、無分別のままの分別という事です。沢庵禅師の不動智も動の否定ではなく、動のままの不動であり、不動のままの動なのです。其他、応無所住而生其心も、間不容髪(間に髪を容ず)、前後際断も皆考えないでの別称であると私は考えています。
第三期は、単複の越えた単の時期です。何物にも何事にも煩わされず、迷わされぬ心境でしょう。その心境の中で喫茶飲啄せよ即ち生活せよと言う事でしょう。剣は人なりもこの心境を体得してこそ初めて言える言葉でしょう。
古歌 わが流は行方も知らず果もなし 命の限り勤めなりけり。
不一
*註1「無心にして自然の妙に入る」(無心でありながらも理にかなった自然の働きに合致しているの意)
*註2「応住すること無くして、しかも其心を生ずべし」(心が一所に留まることなく、適宜適所に心が生じはたらいているの意)
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。