図 書
現代剣道百家箴
警視庁剣道再興の経緯
逸見 和夫(剣道範士八段)
戦災により昭和20年3月9日警視庁得剛館は焼失し、虚脱状態に陥った。終戦の詔勅と共に剣道の行先は暗黒な様相となり、警備隊警察署では武器隠匿を検問された。三多摩警備大隊もMP(Military Police)の視察を受け、30丁の軍用小銃が発見された上、剣道の防具も庭に山積みされて焼却されんとした。私は急遽本庁に報告したところ、占領軍司令部より覚書が下附されてあったが、通達が遅れてその要をなさない。要旨は「警察官の木剣使用は軍事目的の訓練に非ず。その使用は差支えない」とあるが、公示も出来ず、断腸の思いで見守るうちに焼きつくされてしまった。覚書により、警視庁剣道の練習は各方面毎に始められ、21年5月6・7日に亙り方面武道試合が敢行され、各署より優秀選手が参加し、4方面に編成されて覇を争った。参加選手剣柔道200名、戦後本然の姿を再現した喜びは感慨無量であった。同年10月占領軍司令部より公開剣道の要請を受け、不安と焦躁にかられながら公開せざるを得なかった。初回に議事堂前の将官クラブで公開した。基本的打突個所の解説を示し、助教16名によるトーナメント試合を行った。見学席は円陣を作られ、きらびやかで夫人も同席である。試合開始と共に裂帛の気合懸声が発せられた。婦人は男性にしゃがみつき、奇声を上げて驚いた。1試合毎に満場拍手がおくられ、声援もあり、次第に明朗化して無事に終わった。その後の試合からは懸声は出さぬようにと云うことで行われたが、禁止を受けたのではない。警棒術逮捕術の訓練に現在も無声で実施されているのは遺憾である。毎週丸の内郵船ビルの将校クラブ、或いは横浜朝霞立川方面の各駐留軍部隊に毎夜各班を編成して公開に廻った。
将官クラブでは、外に華道茶道能楽等も公開せしめ、日本民族精神の探究の目的に資せられたことは明かである。殊に剣道には関心が深かった。翌年正月8日、日比谷の宝塚劇場での要請があった。当所は占領軍専用劇場にて3千人以上の観客席があり、多くの将兵に観せたいと云うことである。剣道を劇場で公開することは出来ぬと固く断ったが、明治初年に廃刀令が布かれ剣の使用も全く禁じられた時代、榊原鍵吉先生は興行により諸国を巡り、撃剣会をした例もある。この際止むを得ないことと遂に廻り舞台で公開したのが最後であった。終戦事務局から毎回賞金が交付された。1位は300円2位は200円と格差があり審判員は30円であった。剣道は金を求めて見せるものではないと堅く断ったが、労に対する報酬は受けよと云われ、これを受けた。警視庁剣道は本来の姿に戻り、22、23年度と華々しく皇居済寧館に於いて皇宮警察部も参加、対署課試合が挙行されたが、24年5月20日予備隊創立記念日武道大会の招待状プログラムに絡んで総司令部プリアム大佐の意に触れ、即日剣道禁止を受けてしまった。剣道の名称は体育と変更し、警棒操法の研究と制定に努力した。検閲の結果警棒類似の竹刀を使用する訓練が許され、警棒術が制定対署試合も行った。28年5月11日警察庁の通達により再興した。
*補足説明
昭和16年6月に警視庁本部北側に建設された408畳の大道場(『警視庁武道九十年史』)
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。